Days on the Rove

好事家風情の日常。読書と散歩と少々の酒。

荷風おじさんの散歩論 その1

最近Twitterで散歩論的なものをつぶやいています。
あくまでつぶやきレベルなのでたいした内容ではないのですが、考え出すとなかなか面白いです。いつかはブログにまとめて見ようと思っています。
というわけで最近の読書は散歩・都市論関係の書籍を読む事が多いです。
そんな中、久しぶりに読み返したのが永井荷風の「日和下駄」。
永井荷風はフラヌール(都市遊歩者)にしてランティエ(高等遊民)、かつシングル・シンプルライフの実践者。何という贅沢な境地だろう(笑)
(この話は一度このブログでも取り上げていますね。cf.[荷風流Simple Life])

そんな荷風おじさん(リスペクトの意味も込めて、こう呼びます)の散歩論を読み解いて行こうと思います。

荷風随筆集 上 (岩波文庫)
荷風随筆集 上(岩波文庫)

日和下駄―一名東京散策記 (講談社文芸文庫)
日和下駄―一名東京散策記 (講談社文芸文庫)

荷風おじさんは散歩する意味をこのように書いています。

 されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探りこれが保存を主張しようという訳でもない。(略)それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて好勝手なことを書いていればよいのだ。(略)暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。

なるほど目的らしい目的はなくて、ただ歩くのが目的であると。

 自ら進んで観察しようと企てたのだ。(略)その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。

呑気に暮らす方法の一つなんだ、散歩って奴は!
しかも暇つぶしで散歩するのでは決してないのだ!

 元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘に日和下駄を曳摺って行く中、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。

「無用な感慨」にふける時間がうれしい、これはよくわかるな。
でもなぜ、「無用な感慨」が起こるのだろう?

 今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。これに加うるに日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味おうとしたら埃及伊太利に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思をさせる処はあるまい。今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る時には必貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒のない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打仰がれるのである。

なるほど、「もののあわれ」的感覚なんだな。
明治維新、大震災、大戦、オリンピック、バブル、最近の再開発ブームなど、様々な変遷を経てきた東京にはそれぞれの人にそれぞれの変化を感じるものがあるのでしょうね。
そういえばこの感覚は、Y150で昔ながらの風景を壊しまくった昨今の横浜にも当てはまるんですね!深く納得...

 しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。

この感覚、今の街歩き熱中人にも共通しているのかも。『個人』で『説明出来ない』という感覚(笑)

私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの来らざる限り、次第に私をして固陋偏狭ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。私は折々反省しようと力めても見る。同時に心柄なる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ放擲して自分の身をば他人のようにその果敢ない行末に対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。自分で己れの身を抓ってこの位力を入れればなるほどこの位痛いものだと独りでいじめて独りで涙ぐんでいるようなものである。或時は表面に恬淡洒脱を粧っているが心の底には絶えず果敢いあきらめを宿している。
(中略)
 私は後から勢よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、表通から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に後れてよろよろ歩み行く処に、わが一家の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。

.....ふむ、散歩は孤独な行為なんだな
散歩者の風景は今の世でも同じなのだろうか....

というわけで第一篇はここまで

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