横浜に炭坑が?と言う驚きを、(とりあえず)まとめてみる記事。
きっかけは、横浜市戸塚区まちづくり倉田地区まちづくりプラン(http://www.city.yokohama.jp/me/totsuka/kusei/kurata.html)の中の史跡・名所の紹介欄に「下倉田(町名:筆者注)の亜炭」の文字があったこと。
横浜に亜炭?炭坑があったのか?!
まずは亜炭が何かを調べてみる。(wikipediaより)
- 亜炭(あたん、 lignite) とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。
- 褐炭が褐色を呈するものが多いのに比べ、亜炭は褐色から暗灰色を呈する。
- 続成作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多い。
- 品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。
- 日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、大規模~中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。
- 亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
- 2000年代の日本では、燃料としての亜炭の使用は皆無であり、輸入された亜炭(褐炭を含む)が飼料の添加物や土壌改良材などに用いられるのみである。
かなり質の良くない石炭の一種の様ですね。
つづいて、横浜市戸塚図書館の郷土資料紹介のページにて「ふるさと戸塚」という戸塚の古老への聞書き本に下倉田の亜炭についての記事があることを発見。早速借りてくる。
以下、要約。
- 村人が発見。採掘するものの採算が取れず撤退。(時期不明)
- 1916-17頃鉱山師が目をつけ測量調査。
- 亜炭層が野庭(港南区)付近まであることを発見。採掘開始(野庭が先に開始)
- 運び出しのため川沿いに県道までトロッコの軌道を敷設(1200mほど)。
- 田畑の上に軌道の橋が100mほどかかっていた。
- 後には軽便鉄道を戸塚駅まで敷設する話もあった。(!)
- 採掘の最盛期は大正7,8年。
- 亜炭層は30〜35cmほど(!)
- 坑道は2段から3段で1000mの長さがあった(!)
- 立坑(空気穴)は2ヶ所。(地名あり)
- 昭和初期まで採掘されていた?
これ以上の資料は発見出来ず。一旦終了。
ツイッターで港南区の郷土誌本「こうなんの歴史アルバム」に炭坑の話題があることを知る。(@ktsksketchさん、感謝)
本は入手するとして、とりあえず港南区の炭坑についてネットで検索。(本は現在も未入手、なんとかしなくては)
- 港南区側で採掘されていたのは港南区最戸、日野、野庭町。
- トロッコが敷設されていた。
(cf.http://kameno.bne.jp/blog/archives/001751.html - 亜炭業者が亜炭運び出しのために掘った隧道がある。
(cf. http://www.city.yokohama.jp/me/konan/kusei/furusato/fdk/fdk-32.html) - 太平洋戦争中も採掘されていた。米軍作成の地図にも炭坑マークが記載されている。
(cf. http://kameno.bne.jp/blog/archives/001673.html )
(筆者注:同記事中の亜炭のまとめが戸塚区の物と類似しているところがあります。資料の混同があるのかも知れません)
現在はここまでで終了。
うーん、もっと判ったことが多いと思っていたが...意外と少ないのに愕然。
疑問点。要調査。
- 亜炭層はどういう地層に含まれていたのか?
- 亜炭層は実際にどの地域まで広がっているのか?
- 亜炭層の成立年代はいつか?
- 戸塚区側で亜炭坑関連の写真が残っていないか?
- 地図等で(戸塚区側の)炭坑の痕跡は見つけられないか?
- 具体的な坑道の形などがわからないか?
- 正確な採掘時期がわからないか?
- トロッコ線はどこに敷設されていたのか?
- どういう組織が採掘していたのか?
- 採掘の痕跡が現在でも何かしら残っていないか?
- 都市化した地域だが現在でも亜炭が露出している場所がどこかにないか?(実物が見たい!)
などなど、気になることは一杯です。
資料を当たることと、土地の古老、郷土史家の方々に尋ねてみようと思います。
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