第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦6回目[歴史その3]で書いた久良岐郡の問題についてのフォロー記事。
問15
中区や磯子区などの地域は、久良岐郡と呼ばれていました。この久良岐の地名が最初に載った書物はどれでしょう。
①万葉集 ②日本書紀 ③続日本記 ④日本後紀
(正解②日本書紀)
参考資料とは指示されていない、よこはま百問2(神奈川新聞社刊)に解説が記載。
「「久良岐」の名の初出は、「日本書紀」の安閑天皇元年(西暦532年:引用者注)の条に見ることができる」
終了〜。
というわけにはいかないので、以下「久良岐」がでてくる部分を超訳。
武蔵国の国造(国主)一族の内乱が発生(本家と分家の国造争い)。
本家は大和朝廷に助けを求め、分家を征伐してもらう。
本家は分家の領地であった武蔵国南部を朝廷の直属領(屯倉(みやけ))として奉納する。
その四つの場所の名が「横淳(よこぬ)」、「橘花(たちばな)」、「多氷(たひ)」、「倉樔(くらす)」。
なんとなく聞き覚えのあるような名もありますが、「倉樔(くらす)」=「倉樹(くらき)」=「久良岐」ということらしいです。
7世紀後半、国郡里制がしかれる。
この時、横浜市域では「相模国鎌倉郡」、「武蔵国久良郡」、「武蔵国都筑郡」、「武蔵国橘樹郡」が設けられた。(テキストの地図では、市内に高座郡の一部もあったように書かれていますが…。瀬谷区・泉区あたりかな?)
八世紀半ば建立の武蔵国分寺からは「久良」の文字の入った瓦が出土している。
「日本書紀」の(書かれた時代区分が)あとの歴史書「続日本紀」には「久良(岐)郡」の文字がある。(正式の書物に「久良岐郡」が書かれたって事ですね。こういう問題も過去問でありました)
その部分をまたしても超訳。
「久良(岐)郡」で白い雉を捕らえ、朝廷に献上した。そのことが吉兆として喜ばれた。
そのため郡名の「久良(岐)」も尊ばれ、その年の久良岐郡の田祖(米の税金でしょうか?)が、三分の一を免除された。
なんだか、わかったのかわからなかったのか、わからない問題ですねw
でも、まあ、そういうことらしいです。