Days on the Rove

好事家風情の日常。読書と散歩と少々の酒。

鎌倉の失われた温泉について その2

以前書いた、鎌倉の失われた温泉についての追加記事。

今回の記事は「としよりのはなし」鎌倉市教育委員会編平成2年第五刷より引用させていただいています。

1.山崎園について

p202(山崎ではなく寺分より抜粋)

「山崎にも温泉はあったが、そっちはバクチ宿だった。」

ええ?w

p213

「〜庚申塚は上と下にある。上のは打越、下のは八反目にある。下の庚申塔がみんなこば(端)が欠けているのは、中古に山崎園という温泉旅館があった。そこで毎晩のようにバクチがひらかれた。そのとき誰いうことなく、お庚申さまを欠いてもっていれば、負けない、と言うようになったためで、お庚申さんこそ迷惑なこったってことです」

バクチ場ですかw。ちょっと残念な気分。
途中に出てくる、打越、八反目は小字と確認。中古は発見できず。

p209に山崎の小字・小名がでていますが、この中に「熱海」、「湯の本」という文字を発見。「湯の本」は以前のブログでも紹介しましたが、「熱海」とは…。以前のブログで書いた「燃える湯」と何か関係があるのでしょうかね。

2.陣出園・神明温泉について

p202より引用。

「むかしから陣出温泉と神明温泉があったがどちらもいちまきだった。いまの工場ができるときにやめた。(国鉄大船工場の前身は海軍工廠深沢分工場として、昭和17年ごろ、町屋、寺分の山を崩して耕地を埋めてできた。)田んぼにふき出した鉱泉をわかした温泉だったが、よく湯治客が来ていた。」

いちまき…いちまきってなんですかね?辞書でそれらしいのは「一族」ぐらいかな。同族経営だったということなのでしょうか?

湯治客が来ていたそうなので、宣伝めいた物もあったのかなと思います。ちょっと探してみよう。

3.前回に触れた「亀ケ谷切通下の温泉」について

これは観光ガイドブック「かまくら手帖」(平成9年鎌倉市観光協会発行)より引用。

香風園

創業約90年の老舗旅館。木々が鬱蒼と生い茂る亀ガ谷切通しにひっそりと佇む。川端康成や里見弴など、多くの文士が訪れたことで有名。しっとりとした和風庭園や竹林に取り囲まれ、客室からは鎌倉ならではの谷戸の景色が堪能できる。庭内には鎌倉時代に湧出したという洞窟温泉風呂があり、その昔は源頼朝公や政子夫人も利用したという。
9室/2食付1万4000円〜(税別)/P5台
鎌倉市扇が谷3-10-21
0467(2*)****(引用者注。電話番号は一部*印で表記)

ああ、香風園でしたね。現在はマンション?になっています。いつ頃、宿をやめたのかは不明。結構早かった記憶はあるのですが…。

4.

友人が発見したネタ。

大船田園都市のチラシ「新鎌倉鳥瞰図(大正9年)」の隅、大船と北鎌倉に間あたりに「ラジウム温泉」の文字があるそうです。

結構ポピュラーな資料ですが、田園都市の街路に気をとられて、温泉の文字までは気がつきませんでした。

理想的住宅地新鎌倉案内(大船田園都市株式会社/1922)神奈川県立図書館所蔵(部分拡大)
理想的住宅地新鎌倉案内(大船田園都市株式会社/1922)神奈川県立図書館所蔵(部分拡大)

大船(おほふな)駅と鎌倉(かまくら)駅の間に、「ラヂウム温泉」の文字があります。
その文字の右上には天神山の文字。その麓にちいさな建物の姿がみえます。

前回も紹介した今昔マップで確認してみると

これは、同じ物でしょうね。当時、ある程度知られたものだったのかもしれません。
昭和2年に同じ山崎(といっても距離は離れていますが)に、北大路魯山人の星岡窯をつくっているぐらいの鄙びた場所だと思うのですがね…

(北鎌倉駅はこの絵図のできた5年後、1927年、仮停車場として開業したので記載はなくて当然です。念為)

今後は絵葉書、観光ガイドなどで、実際に当時の様子がわかる何かが見つかればいいですね。今後の研究課題のひとつです。

くわえて香風園についても、いつ頃閉館したのかなど調べておきたいですね。これは簡単にできそうですが…

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