Days on the Rove

好事家風情の日常。読書と散歩と少々の酒。

知識と体験

この記事は閉鎖されたposterous(cf. wikipedia)のアーカイブをTumblrに移行させたものを、さらにはてなブログに保存した物である。(2021-07-18記)

ちょっと怒り目のポスト。故に脈絡が無くなる可能性もあるが注意して進めたい。

先日、とある場所で自分の事を「知識優先!」と罵られた。
「知識優先」とは『頭でっかち』のことらしい。

さもありなん。自分にそういう要素が多分にあることは理解している。そしてそれを脱却しようともがいているのを、罵った相手は判らなかったのだろう。それは自分の能力の低さと努力の不足であると痛感している。

とはいえ、罵った相手を私があえて罵るならば、『彼』は体験だけをもって吉とする『体験優先』主義者にすぎない。
しかも、自分が過去に体験したものがすべてであり、過去にそれを体験できない者・物を差別する『偏狭な体験主義者』である。

反論すると同時に自分自身のスタンスを明らかにしたい。
また自分が『彼』と同じような過ちを犯さないために、自戒をこめてここに記したい。
(若干箇条書きが過剰になってしまった。改めて書き直しをしたい。)

1『知識』と『体験』は車の両輪である 。

体験無き知識はその意見・批評・論説(面倒なので以後『言葉』)の妥当性を、自分自身が評価することが出来なくなる事に問題がある。
いわゆる鵜呑み状態。その知識を実態のあるものとして捉えるために体験というものは必要なのである。

一方、知識無き体験は自分の体験のみに『言葉』が左右される可能性がある。また自身の視野というのは万全なものであることは、まずありえない。ゆえに体験を補完してもらう知識も重要である。

お互いを補完しあう関係以外ありえない。両輪そろってこそ自身の推進力は生まれるのである。

(もちろん体験と知識が十全に揃う事はまれであるかも知れない。ならば自身の不完全性を踏まえて発言すれば良いだけの事だ)

2 個人の体験と審美眼による批評の妥当性

自分の体験に引きつけて物事を語るのは悪い事ではない。そこに真理・真実が隠れている可能性はいくらでもあるだろう。しかし、それだけですべてだ解明できるとは思わない事が大切である。
自身が体験できる事は有限である。また意識的・無意識的に体験を選択する事も可能なのだ。それを考えれば自分の体験だけをもって吉とする事は出来ないはずである。

個人の審美眼によった批評を行うのならば、真摯な態度をとらなくてはならない。それは対象を見つめる行為ではない、自分自身を見つめる行為である 。
批評とは批評対象について述べているように見えるものだが、『自分自身』というフィルターを通して『自分自身』を語っている事に過ぎないことを意識しておかなくてはならない。 だからこそ真摯さが必要なのである。

3 批評者の立ち位置

相手の立場を尊重する。これはどんな場合も同じ。物理的にも精神的にも、社会的にも。
自分の価値観に照らして、相手の『言葉』を受け入れがたいのならば、議論、寛容、拒否のどれかに方法は限られる。相手を小馬鹿にした態度を取るのは、ただ自分のちっぽけな自尊心を満足させたいだけのものでしかない(それは下劣な行為だ)。故にそのような立ち位置で『言葉』を語ってはならない。 
なにも批評の対象を貶める必要はない。何故それを受容できないのかを明らかにすればよいだけのことだ。

自分の体験・審美眼を絶対化しない。(私自身で言えば、自分自身の能力や知見が万全ではない事を常に意識している)
自分を絶対化せず相対化する事で、その世界(分野など)での自分の立ち位置が明確化される。
それが必ず新たな体験や知識への呼び水になる。 新しい自分を発見できるチャンスでもある。

常に真摯に対応する。
真摯さとは批評されるモノ・コトだけではなく、自分自身の体験・知識に対しても真摯に向き合わなくてはいけない。
自身に真摯になれない人の言葉など、誰も耳を傾けない。 

4 そして

人を貶すことよりも自分を高める事、楽しむ事が大切である。
排除ではなく、寛容と敬意。小さな差異を罵りあうよりも、その差異を楽しめばよい。(そこに議論は生まれてくるのだ)

相手のフィールドに入って発言すること。しかも相手の立場を尊重しなくてはいけない。自分のフィールドから打ち込んでくるのはただの雑音にすぎない。
ついでに言えば、受け止める方は反射思考で吐き出された言葉はスルーするのが吉である。それは『言葉』ではないから。

その為人というのは、言葉の端に現れる。故に一回吐いてしまった言葉には責任を持たなくてはいけない。もちろん自分『も』である。

補記

「また意識的・無意識的に体験を選択する事も可能なのだ。」これは知識についても同じ。
完全な体験も知識もまず存在しない。だからこそ、常に意識して自分を見つめねばならないのだ。 

Copyright ©2006-2024 猫綱 (Nekotuna) All rights reserved.